マグロ大国・ニッポンの光と影…マグロあれこれ(その2)


1960年代以降、日本のマグロ船は競う様に遠洋漁業に乗り出します。
遠洋漁業についてはコチラをご参照ください。
遠洋マグロ船基幹基地の三崎、焼津、大間、気仙沼、土佐、串木野の港は連日マグロ船の出入りで、大変な活気に溢れていました。

この頃、インド洋で南方付近にミナミマグロの産卵域が発見されました。
産卵域のマグロの群れを釣り上げた船が現れ、漁師やマグロ流通関係者のあいだで瞬く間にその情報が知れ渡ることになります。
オーストラリア・タスマニア沖にもミナミマグロの好漁場を発見して、マグロ船の群れは南半球を目指して漁に出てゆきました。
クロマグロと並びミナミマグロの価格も上昇してゆきます。

マグロを釣る網船は木造船から時化にも強い大型の鋼鉄船になり、魚群レーダーや超短波無線(現在では衛星無線)、ファクシミリ、延縄自動巻き上げ機、急速冷凍装置など船舶、漁法最先端技術の結晶が搭載されていました。
また、若者が一獲千金を夢見てマグロ船に乗り込み希望者が多く、乗船待機者が相当いたそうです。

1970年代以降になると、日本近海の温暖海域やアメリカ太平洋沖、メキシコ、エクアドル、ケープタウン沖、アンゴラ、モンテビデオ、スペイン沖など太平洋から大西洋、地中海まで世界の海を日本のマグロ船が「黒いダイヤモンド」を探しに駆け回っていました。
様々な国にマグロ網船から日本に運ぶ運搬船に移し替える転載港が設定され、転載港は日本のマグロ船が沢山入港して、さながら日本の漁港の様でした。
その一方で、マグロの好漁場に日本のマグロ船が次々押し寄せて、網船が去ったあとはほとんど魚が残らない有り様が国際問題になりつつありました。

1970年代後半になると沿岸国は次々に自国海洋資源保護のため、200海里漁業水域または経済水域の設定が行われます。
これはマグロ船にとって後々大きな痛手となる出来事でした。
経済水域内での漁の制限やもしくは禁止、漁の保証はするが高額な入漁料の設定がされてしまいますが、マグロは高度回遊魚のため国際管理の対象として200海里法では対象外でした。

しかし、1981年11月にICCAT(大西洋マグロ類保存国際委員会)の会議にてアメリカより、大西洋のクロマグロが日本のマグロ船が中心に乱獲しているので資源量が減っており、このままでは枯渇してしまうと発言しました。
日本はそれについて反論しましたが、アメリカのペースで会議が進行し、向こう一年間北西大西洋全域ではマグロの商業漁業が禁止になりました。
その流れは世界的に広がり、東大西洋やオーストラリア、ニュージーランドの南インド洋でも商業マグロ漁獲の強い規制が設定されました。

日本ではマグロ船の減船を行いますが、その一方でマグロ国際条約に加盟していない国々が密漁さながらの違法操業を行っていました。
条約に加盟していない国に船籍を変えた船を便宜置籍船といい、アジア地域のオーナーが中心でした。
日本で廃船になった船を、便宜置籍船を運用する国に転売していることが多かったのです。
また、日本の商社も安価でマグロの仕入れができる商売の構図が出来上がっていたのです。

日本はそれらの国へのマグロ船転売禁止、便宜置籍船に対して商業漁業の禁止を訴えますが、彼らは日本が承知で我々に中古船を販売したとして法外な補償金を請求しました。
日かつ連(現・日本鰹鮪漁業協同組合)は便宜置籍船を扱っている国の政府と協議をして、一隻三千万から五千万円の廃船保証金を支払うことで合意しました。

日本国内では便宜置籍船の会社からマグロの買い付けを禁止するように通達を出し、違反業者は名前の公表などを実施します。
大手総合商社などは不買宣言を出しますが、一部の中小のマグロ専門商社は未だ平然と取引を続けているという実態もあります。

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