魚に関することいろいろ

佃煮のおはなし その2

さて、今回は徳川家康と佃煮のおはなしをしましょうか。
時は1582年(天正10)6月4日。
当時の天下人、織田信長が明智光秀の謀反によって本能寺で倒れたのが、その2日前の6月2日の早朝です。
そのとき家康一行はわずかな手勢とともに大坂・堺の地を遊覧していたのです。
光秀の関係者に見つかったならば、信長の盟友である家康が無事のままでは済みません。
家康は岡崎城へ戻れないと狼狽してしまい、一時は信長の後を追ってしまうほどの勢いでしたが、家臣の本田忠勝の説得で落ち着きを取り戻しました。

運良く、堺の商人・茶屋四郎次郎の知らせで一行は退路が阻まれていることを知り、異変を知らないふりをして住吉神社参拝ということにして、岡崎とは逆の方向を迂回して脱出することにしたのです。
家康一行が、佃村(大阪市住吉区)の神崎川に差し掛かりましたが、次の一難、渡り船が見つかりません。
川が渡れず途方に暮れていたとき、佃村の庄屋・森孫右衛門は、自分たちの手持ちの漁船と不漁のときに備えていた小魚の煮物を道中食・兵糧として家康一行に差し出したのです。
梅雨という気候の悪い時期に、人里から離れた海路や山道を通って敵に見つからず、岡崎城に帰らなければばらない一行にとって、佃煮の始まりである小魚の煮物は味が良ければ日持ちも良く、貴重な栄養源となったのです。
佃村通過後、服部半蔵を頭とする伊賀忍者部隊に助けられながら伊賀国の険しい山越えをして、加太峠を抜け伊勢国から海路で岡崎城ヘと帰り着いたのです。
貝や小魚を塩ゆでにした佃村の煮付けや、忍者食など助けてもらった伊賀衆と一緒に食べた家康は心よりこれらの食事のありがたさを感じました。

その後、1590年(天正18年)に家康は関東移封のため江戸城に入りますが、そのとき伊賀の地侍たちは江戸に召し抱えられ江戸城の警護役を勤めました。
江戸城の半蔵門の名は“服部半蔵”の名前が由来となっています。
そして家康を助けた佃村の人達への信任は、大変篤いもので江戸入来のときには佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せて、江戸湾での漁業をすることに対して特別な漁業権を与えたのです。
また家康は1615年(慶長20年)の大阪の陣に備えて、佃村の漁民に対して大名屋敷の台所へ出入りのできる特権を与え、佃村の漁民たちは敵方・豊臣秀頼が率いる大坂の動向を探る密偵となって活躍したのでした。
画像出典元:https://blogs.yahoo.co.jp/mitimitimittyann_press/27522048.html

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