前回からの続き、1989年からのマイワシ大不漁について綴ってゆきます。
史上最大の451万トンという水揚げ量を記録した1988年ですが、このとき既にマイワシの生息数が減少している兆候が見られていたのです。
最初にこれを発見したのは房総半島沖で漁をする旋網船団の漁師たちでした。
例年秋の終わりになると、親潮に乗って南下してくるマイワシ0歳魚の群れが12月に入っても一向に姿を見せません。
更に年が明けて1月になっても殆ど0歳魚の姿は見えず、1988年年末から1989年初春の間の越冬期に水揚された0歳から1歳の魚の水揚げ量は前年の5%にも満たない結果だったのです。
この異変を漁師から聞いた水産関係者は、いつも越冬のために房総半島沖に集まる0歳、1歳魚はもっと沖合の暖かな海で過ごしていると仮定して、黒潮より更に沖合の調査に乗り出しましたがここでも0歳、1歳魚の魚影を確認することはできませんでした。
そして翌年の1990年、昨年度よりは0歳、1歳魚の魚影は増えてはいましたが、それでも一昨年前の1987年度魚の量と比べると1/5程度しかありませんでした。
以降、0歳、1歳魚のマイワシ資源新規加入量が低迷し続けたため、マイワシそのものの資源量が大幅に減少してしまったのです。
1990年代初頭には最盛期1988年の1/10まで水揚げ量が落ちてしまい、マイワシ漁をしていた漁師たちは壊滅的な状況に追い込まれてしまったのでした。
マイワシ大減少をまざまざと見せつけられた水産関係者たちは、この裏には何が起きているのか、様々な要因を追求することを始めました。
まず、第一に考えられた要因は「乱獲」でした。
その年に産卵するであろう“親魚”を多く漁獲しすぎたために、産卵量が著しく低下したということでしたが、実はこの大減少周辺の年に産んだマイワシの卵は減少しているどころか、かなり多いことが解ったのです。
従って、このマイワシ大減少は人為的なことが要因ではなかった訳です。
では何故、多量の卵が産まれたのに0歳魚が極端に少なかったのか?
ふ化して餌を食べるようになった成長初期に何らかの要因があったということが考えられました。
通常、ふ化したての仔魚は、卵に由来している卵黄(油球)を栄養分として2,3日程を海面近くで生活します。
そして油球が消滅して、消化器官が形成されて口が開くと餌となる動物プランクトンを食べ始めます。
しかし、ここでもこの考えが違うことが証明されるのでした。
画像出典元:http://yumeirotansaku.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-f369.html