築地市場では1日で約2000トンの魚介類が取引されます。そこでは16億円が毎日動いています。取引の内容を見ると、3割が鮮魚、3割が冷凍魚、残り4割が塩干魚など加工品です。
築地市場には卸売業者が7社あり、2社が塩干物専門で、5社が全部のカテゴリーを取り扱っています。市場では約4,000名が働き、取引の来場者は約35,000名がやってきます。
昭和10年に開設されて以来、戦前戦後を通じ魚河岸の名で親しまれ、いまや日本を代表する市場となって80年が過ぎました。
江戸時代の初期に家康が幕府を開き、江戸城の台所を賄うために大阪から漁師を呼び寄せ、江戸湾内で漁業の特権を与え、漁師は幕府に魚を収め、残りを日本橋で売り出しました。これが魚河岸の始まりといわれています。
江戸時代の魚市場では「問屋」が店を構え、生産者から魚を仕入れて独自の流通組織を発展させました。
明治になって新政府のもとに市場は近代化に向かい始めます。問屋や仲買人は組合を作って纏まりました。都市の人口が増え取扱量や業者も増え取引に乱れが出てきました。
不衛生な市場に人々の非難は募り、公設の中央卸売市場を望む声が高まってきました。
大正12年3月に「中央卸売市場法」が制定され、東京市主導のもとに衛生的で公正な取引と価格や品質の安定を目指しました。
市場法にのっとって東京市が中央卸売市場の計画を進めていた矢先、大正12年9月の関東大震災を罹災しました。これにより長い歴史のある日本橋魚河岸は幕を閉じました。
震災後芝浦に仮設市場を設けたが、狭くて交通の便も悪いため、海軍省から築地の用地を借り受け、芝浦から移転させました。これが築地市場の始まりです。
昭和10年2月に築地に23万平方メートルの東京中央卸売市場が開設されました。
現在東京都中央卸売市場は首都圏の一大流通拠点として、生鮮食料品の流通を担っています。
中でも築地市場は日本最大の魚市場になったのです。
江戸から東京市にかわり、日本の食文化を支えてきた築地市場は、食の安全・安心、食生活の変化、産地直送やインターネット取引の拡大など、時代の急激な変化に対応すべく、豊洲への移転を決定しました。
豊洲新市場は首都圏の基幹市場として50年先を見据えて、築地市場で培ってきた豊富なノウハウを基に先進的な市場を目指しています。
平成28年11月7日開場に向けて、現在着々と整備が進められています。
消費者から見れば、鮮度の高い魚介が手に入ることや、産直の選択肢も増え、取引形態は複雑になるようですが、IT技術の発展によって利便性は増すものと期待しています。